昭和40年08月26日 朝の御理解



 本当に神徳を受けさせてもらわんにゃならん。人徳も受けさせてもらわにゃならん。と、ためにはどうしても、中から見ても外から見ても、上から見ても下から見ても合点のいくというか、なるほどと思われるような信心をさせて頂かなければならんと思う。まあ私共は、そこんところに、意欲を燃やさなければならん、おかげさえいただければよいという信心ではいけない。またそれでは本当のおかげがいただけるはずも無い。できんにしましても、そこんところに一生懸命精進するという。
 昨夜、久しぶりで子供達と一緒に、12時過ぎまで信心の共励をさしてもらった。長男と長女とそれから愛子と4人です。もううちのお母さんたっとんが、もう信心はできずに、ずうっと何にもとりえはないけれど。一生懸命のところだけは、やっぱ拝んどかんといけん、と言う話からでした。もう本当一生懸命、一生懸命になる以上にですね、もう朝も早から、晩遅うまで、いわゆる御用があるのでございますから。
 とにかくその、一生懸命で、あれに信心であったら本当に素晴らしいんだろうけれどもと、話したことでした。私達が本当にやむにやまれん思いで信心を高めていきたいと、そのためには、やはり本当改まるところは改まっていきたい、磨かんならんところは、磨いていきたいと、この願いを持っていなかったら、信心に魅力がないという話です。どんなに高尚になりましてもです。
 もういつもその求めてやまんというか、磨いてやまんというか、ね、もう改まりたい、改まりたいと願っておりながら、改まりが出来ないと、そんな人があるんですよ。もう様々な欠点を大きく持っておるんですけど、改まりたいということに一生懸命になっておる人があるんです。改まりができなくても、これはもういいんですね。(・・?)けれどもその、改まろうと言う意欲が全然ない、かのように見える人がある。
 本気で信心を高めていこうと、本気で信心を、信心を頂いていこう、という願いを持っていないようにみえる人がある、そら内容に入ってみなければわからないんですけれも。皆さん、どうでしょうか。ね。本当に様々な長所欠点お互い持っているんですれどもです、ね。その長所、欠点を、長所を伸ばさしてもらい。欠点をいよいよ改まらしていただこと、いよいよ信心を深めさしていただこうと、いよいよ信心を高めていこうと、ためになら、どういう信心をさしていただいたら良いだろうかというところに。
 焦点を置いて一生懸命に信心をしておる人ていうのは、本当に少ないです。昨日福岡相互ですかまあ、銀行の方達が、支店長さんと、二人で次長の方と見えられたんです。まあ、いろいろ話をしておるうち、先生、金光様の御信心は、何年ぐらい座らして、一人前になるんでしょうか。ていう話があったんです。そうですなあ、何年、まあ三年五年の信心では迷いやすい、十年と信心が続いたら、われとわが心をまつれ、とおっしゃるんですから、というても十年続けておるから。
 果たしてわれとわが心を拝めるようにみんななるかというと、難しいことですね、というて、まあ話したんですけども。まあ例をとって話したんです。私の長男が御本部修行に行って、そして親教会の修行を終って、二年半して帰ってまいりましたんですけれど、親の目から見てもこう、もうちょっと、親から言うのもおかしいんですけれども、もう信心がすすんでおるな、またやむにやまれんという一生懸命の意欲を持って、そのいわゆるお父さんの信心を頂きたいという願いを持っておること。
 また自分がおかげ受けていっておる姿と、一生懸命修行しておる姿、またこの少し高いところから見ておる、どんだけ高いところからものを見るようになったか、ということは私がようくここから見ておると分かるんですよと、お取次やなんかさして頂いておると、ほう、自分でも随分高められたと分かるんです、と。ですから、もう、そうですね、三年本気になったら、おかげ頂くでしょうと、私が申しました。
 それはたとえば、もうそのことに専行するか、専念するか、信心を分かりたいということだけに専念するから、ところが、まあ、ご信者さん方になるとそんな訳にはいかんのですもんね。様々な難儀を持っており、一家というその、背負っていかなければならなかったり、ね、ですからそれを通して信心を分かっていこうというのであるから、私がここ十五年間も言い、いい明しに証してきたところのことはもうこのことだけなんですけれど、それをしょうとする人は本当に少ないです、というて話したことです。
そこにしぼってないということ、信心を。
 信心、信心が分かればいいというだけではない、おかげを頂かんならんから、信心を分からんならんていう(・・・・・・・?)けれども、いやそれ(・・・・・?)ども、おかげを頂かんならんから、一生懸命であるけれども、それこそ信心がテンポが遅いというわけなんです。どうでしょうか、もうとにかく、そのことにたとえば、ふなら長男なんかは、食べることに考えることはいらず、ね、家族の心配はいらん、ただ信心が分からなければならん、信心が分かりたいしかもその信心が分かりたいと思うことに、ひとつの意欲を、この人学院に行っておりますときの話を私少ししたんですよ。
 ある時手紙に、あの教祖の神様の奥城に夜な夜な学院を抜けて、御祈念に行く、御祈念をさしてもらう、もうそれがとにかく楽しいんである、ただいま僕は神様と恋愛中だといったようなその、手紙をよこしたことがあるんですよ、というたら、それこそ感心される。ね、もうその神様のもとに通うのは、本当に恋愛中のその様な情感を持ってです。神様通いができる、教組の前の奥城に出て御祈念をすることが、そういうふうに、楽しゅうなってくるということはしかし、たいしたことですねということなんです。
 このことば、お願いせんならんけん教祖の神様の奥城に夜中んでん、参るというなら、多いですよ。教祖の神様の前でお知らせのひとつでも頂かんならん、と、というて、その、参りよるけれど、ただそこに通うことが楽しみというようなことになってくるということは、やはり本当にそこにしんみりしなければ、できることじゃないと私は思うです。まぁあらゆる観点・・・・・?おきましても・・・・?まあ、どうでも・・・・?というと、どうでもお父さんの後を継がんならん。
 お父さんの信心を頂かなければならないという願いというのはあるから、そこにそういうふうに頂けるのじゃなかろうかと思うんです。昨日長男が奉仕をさせて頂いている間、このお届け帳一番始め、一番初め一日の一番始めから、丁度向こうに座る頃には、百四五十人ぐらいのお届けがあっておるんです。もうそれを一人一人指で抑えてです。その一人一人の名前を申し上げて一生懸命御祈念をする、けれどもどうしても願いとかお礼とかいうことにならずにです、総氏子一人一人の、お詫び以外になか一人一人の。
 例えば永瀬格一なら永瀬格一、本当に素晴らしい信心だと。けれども少し高いところから見ておると欠点がわかるわけなんですね、やはり。すこし上から見ておると、いわば横から見て素晴らしいんだけれども、上、神様の目からご覧になるちゅうわけです。ね、いわば少し信じられたからと上から眺めさしてもらうと、中はうつろだということなんです。いわゆる、朝参りもされる、・・・・・・?
 それだけでも一生懸命なんだけれども、朝参りはなさる、一生懸命の信心の稽古はなさる、御祈念はする、御理解は頂く、と。ね。その勉強に一生懸命で、まあ神様に喜んでいただくようなことに従事しているものがどれだけあるかと。おや、あれこそ一生懸命なんだけれど、教えを頂くことにも、御祈念をすることにも一生懸命なんだけれども、その一心を神様に喜んでいただくようなことに従事しておるという人が本当に少ないんですよ。ですから・・・・・・・・・・・・・・?
 とにかく一人一人の・・・・?があって、一人一人、何何の何何のという人がございます、と。ど~うぞ、どうぞとお礼をさせて頂くと、結局はその人のことをお詫びよりほかにないとこう、ということを昨日話しておりました。そしたら、私が御心眼にですね、頂くことが北斗七星のかたを頂くんですね。北斗七星が、こうひしゃくの型になってるですね。そしてちょうど、あの竹輪をですね、こう輪切りにしてこう立ててこう、北斗七星型に置いてあるところなんですね。
 いわゆるその、ああいう風にこう北斗七星型と、いったような型に飛び石なんか置いたら、素晴らしい格好になるだろうなというように、竹輪をこう切ってですね、こうやって置いてあるところ、なるほど上から見たら穴がほげとる。だからですね、横から見ると竹輪に見えるんだけれど、ね、上から見ると穴がてほげているといういうこと、それでも一生懸命だから、北斗七星ということは、皆さん、知っているでしょう。
 ひしゃくの型。ね、そういうやはりおかげ、・・・・・?をいわゆる救うところのおかげはやってあると言うことではないじゃろうかと思うた、私は。そこでこの穴のあいているところをです、いかにこれを一杯満たしていくかというところにです、焦点をおかしてもらうということなんですね。信心は・・・・・?高尚なことが言えるということだけじゃないんです。ただ一生懸命お参りするということだけじゃないんです。
 どう神徳を受け、人徳を受けていっておる人達の姿と、ね、いわゆる神様の目からご覧になられたとき上から眺めた時の姿というもの、いうならば私は、ここの中の欠けておるのが詰まっておる人達の上に、私は神徳が、いわゆる神様の御信用というものがいよいよ頂けるのではないかと、ね、その神様の御神徳を頂くともです、そこには・・・・・?もです、いわゆる神様のご信用を受けさしていただくということは、やはりお互いが一生懸命にならなければならないということです。
 なるほどお参りにも一生懸命、もう今朝でもこやってお参りするということは、もう実は一生懸命でからなければお参りできないです、という人がいくらでもあろうと思うんです。夕べは何時まででした、今朝もこうやってお参りするということだけでもなかなかでけることではないのだけれども、お参りをすることに教えを頂くことに御祈念することに一生懸命なんだけれども。
 そしてお互いにその一心を神様の喜んで頂くことのために、私は行使するという、この信心に一生懸命にならなければならなければいけないんだということ。そこに例えて、一生懸命に・・・・?ならしてもらいましてもです、ね、そういう一生懸命というところに、私は神様はおかげを下さるというふうに思うのです。ね、これはもう本当に神様の目からご覧になったら確かにそうだ、ちょうど北斗七星型に置いてある。
 その竹輪を切ってある言うなら神様が、まあいうなら、むこさきを、れんこん食うておかげを下さる、お前も一生懸命するからというようなところではないでしょうか。ね、それに、たとえば中身の詰まったというか、ね、それに上から見ても・・・・・・・・・・・・?神様がれんこんくださったのじゃあない、神様が喜んで下さっておかげを頂けるという信心、そういう信心ができたら、私は思うんです。
 そこんところを願い信心にならなきゃいかんと。やむにやまれない、その真の信心を頂かしてもらいたい、分からしてもらいたいと、ね、いつも前進、前進、前進することを願わしていただく信心でなからなければ、私魅力はないと思うですね。お互いどうでも一つ、せっかく信心の稽古をさせて頂くんでございますから、もう本当にどうかして、本当の信心が分かりたいと、と言う願いをもっていくことがです。
 その中がいっぱい詰まっていくことのまあヒントを与えて下さる、またヒントを自分でも得て、自分の信心にしていくことができるだろうと、こう思うです。一番つまらんのはです、どんなに例えば・・?青年の方だった。この人はまるまる信心ができていた、熱心だ、どういうよか信者にならっしゃるじゃろうかと思うた人があるんですけれども、二年なら二年、三年なら三年するとぴたっと、それっきり止まってしまう人がある。もうそげな事は分かった、ちゅごたある顔をしてから。
 もうそれ以上進もうとする意欲がない、ああそりゃもう生き神様てんなんてん、ちゆうようなことなんてん、考えるもう全然その考えない、どこまでもやはり目指すところは生神金光大神と、いうような、そのところを目指させて頂いての信心、ためにはこれではいけんのですから、これでは内容がないですから、どうでも一つそこんところを目指させてもらう信心、ほんとどげなしたらほんな信心になるかでしょうかね、と。
 例えていうて、そういうことで話し合いのできる、どこをどう改まったならよいかの、お父さんと話あっていけれる信心、ね、自分のよかとこはもう、今日そのの話があったんです、ね、もう、よう見せようとするために自分というものをこう飾ろうとするお父さんがある、お父さん子供から大事にしてもらわんならん、ね、じゃなくてから、お父さんのどこが改まったらよかかの。というてお父さんが悪かことを赤裸々に出しながらです。ほんならそこばお父さんもいっちょ改まっていくとよかの、というて。
 ほんなら親子が話し合いながらです、しら真剣場というものが私共の信心の、そうさせて頂く者の上に、ほんとに必要な気がするんですね。どうでも一つもう親だから子だから、主人だからといっておらずに、もう本当に改まりに改まらしてもろうて上から見ても下から見ても、横から見ても縦から見ても成程とこう思われる様な信心、そういう信心を愈々意欲させて頂くところから神徳、人徳を頂けるものだと私はそう思うですね。
   どうぞ。